美丽的离别(中日版)_[日]渡辺淳一【完结】(6)

2019-03-10  作者|标签:[日]渡辺淳一

  八十年代の人は大正を、六十代の人は昭和初期を、そして四十台の人は、あの大戦と、それに続く暗い年代をさえ、よき時代という。

  それはみな過去というベールを透かしてみたときの感傷で、その時点からの見方ではない。

  それは過ぎた青chūnへのノスタルジイで、その意味で、一方的でナルシスティックなものである。

  だからこそ、ある人が、自分たちの青chūnが素晴らしかったことをいかに熱心に説明したところで、ほかの世代の人には、何の共感もよばない。

  冷ややかないい方をすれば、自己陶酔としかうつらない。

  恋の別れも、それに近い。

  80年代的人说的是大正时期,六十代的人说的是昭和初期,然后四十代的人,指的是那场大战,如此这般的持续追忆着甚至更晦暗的年代,也被称为美好的过去。

  那是大家透过面纱去看所谓的过去时所产生的伤感,从那一时刻起分歧消失了。

  那是对已过的青chūn如乡愁般的思念,也就是,单方面的自我陶醉一类的东西。

  正因如此,某人在热心说明自认为很棒的青chūn时代时,其它时代的人却一点共同感都没有。

  要是想做一个酷酷的好人,也只显得是自我陶醉罢了。

  恋爱的离别,于此相近。

  いま僕は、k子との別れを、甘く美しいものとして回想できる。

  二人は愛し合っていたが、互いの立場を理解して別れたのだと思い込むことができる。

  それはまさしく、思い込むという言葉があたっている。年月の風化が、美しいものに過去をすり変えた。

  だが、別れの実態はそんな美しいものではなかった。互いに傷つけ合い、罵り合い、弱点をあばき合った。

  とことん、相手がぐうの音も出ないほど、いじめつけて、そして自分も傷ついた。

  愛した人との別れは、美しいどころか、凄惨でさえあった。

  しかし、それはいいかえると、そうしなければ別れられなかった、ということでもある。

  そこまで追いつめなければ別れられないほど、二人は愛し、憎みあっていた。

  现在我和K子分手了这件事,也可以作为美好而甜美的事来回忆了。

  可以确信的是两个人相爱着,并互相理解着各自的立场,所以才选择了离别。

  这简直就像,坚信着什么一样的话语。经历了岁月的洗礼,过去被美好的东西所替换了。

  但是,离别本身并不是那么美丽的东西。互相伤害,互相谩骂,互相揭露着对方的弱点。

  最后欺负到对方无言以对,然而也伤害了自己。

  和相爱的人离别,与其说是美丽,不如说是凄惨。

  但是,换个角度考虑或许不错,如果不是那样就没有办法离别。

  两个人是如此的爱着、憎恨着对方,以至于不到这样bī迫的程度就无法分开。

  僕は今でも、「君を愛しているから別れる」という台詞を信じられない。

  そういう論理は、女性にはあるかもしれないが、男にはまずない。

  たとえば、恋人にある縁談があったとき、「君の幸せのために、僕は身を退く」ということを言う男がいる

  また、「僕は君には価しない駄目な男だ。君がほかにいい人がいるなら、その人のところに言っても仕方がない」という人もいる。

  こういう台詞を、僕は愛している男の言葉としては信じない。

  もし男が、相手の女性をとことん愛していれば、男はその女性に最後まで執着する。

  我至今,仍无法相信“因为爱着你,所以离开你”这类台词。

  如此这般的理论,对于女性来说也许成立,对于男性来说则完全不是。

  比如说,恋人们谈婚论嫁的时候,有男的会说“为了你的幸福,我决定退出”之类的话;或者,“我对于你是毫无价值的男人。你要是有其它更好的人在的话,去那个人的身边也是没有办法的事”这么说的人也有。

  这类台词,我无法相信是正在爱着的男人说出来的。

  要是作为男方,彻底地爱着那个女的话,男性这方会对那位女性执着到最后。

  もちろん、人によって表現に多少の違いはあろうが、そんな簡単にあきらめたりはしない。

  その女性を離すまいとする、かなりの犠牲を払っても、その女性を引きとめようとする。

  恋とは、そんなんさっぽりと、ものわかりのいいものではない。

  いいどころか、むしろ独善的である。

  相手も、まわりの人も、誰も傷つけない愛などというものはない。それは、傷つけていないと思うだけで、どこかの部分で、他人を傷つけている。

  愛というのは所詮、利己的なものである。

  だから傷つけていい、という理屈はもちろん成立たない。他人を傷つけるのは、できる限り少なくしなければならない。

  当然,人们的表现各有不同,但绝对不是这么简单就能放弃的。

  不想离开那个女性的话,即使要付出相当大的代价,也要想尽办法挽留住她。

  所谓恋爱,并不是那么gān脆,容易理解的东西。

  反而正好是有些自以为是的东西。

  对方也好,周遭的人也好,不伤害任何人的这类爱情是没有的。

  反而是,想着不想伤害谁,却不知道在某个地方,伤害了其他人。

  所谓爱,归根到底,就是一种利己的东西。

  即使伤害也好,这样的理由当然不能成立。伤害他人这种事,尽可能还是少做为好。

  「君の幸せのために、僕は身を退く」という言葉は、一見耳ざわりがいい。

  冷静に、大きい視野から、物事を見ているように思う。

  しかし、愛に冷静とか、大きな視野などというものが必要であろうか。少なくとも、燃え滾る愛の火中にある人が、そんなことを考える余地があるだろうか。

  冷静とか、客観的という言葉は、なぜか「愛」にそぐわない。借り物のような感じがする。

  “为了你的幸福,我决定退出”之类的话语,咋一听去很刺耳。

  冷静下来,放开眼界,去看去考虑更多的事物。

  但是,在相爱中冷静下来,去开阔视野之类的有这样做的必要吗?

  至少,在置身于滚滚燃烧的爱火当中的人们,还有那样去考虑的余地吗?

  冷静、客观之类的言辞,为什么都和“爱”不相称呢。就像外来的东西一样。

  「僕は君にそぐわない。君の幸せのために身を退く」

  こんな言葉を言いかけたとき、男は相手の女性と別れることを考えている。そろそろ退けどきだと思っている。

  その証拠に、女性が、「私はあなたで満足だから、いつまでも従いて行くわ」といったところで、男は態度を変えはしない。


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